心理的安全性、人を動かすと紹介していきましたが、今回は哲学者エピクテトス大先生を紹介させて頂きます。
私はチームの基礎に心理的安全性を敷き
人を動かすことを基本に対人関係を配慮し仕事をしています。
そして自分自身は
エピクテトス大先生の教えを実践することができるように日々精進しています。
これもあくまで備忘録。
誰かに教えているというようなスタンスだと、エピクテトスさんに戒められるでしょうね。笑
今回は特に
”奴隷の哲学者 エピクテトス 人生の授業 荻野弘之さん著”
を参考に感じたことをまとめていきたいと思います。
ではいきましょう!
エピクテトスとは
エピクテトスとは紀元前のローマ帝国時代に存在した一人の奴隷です。ローマ時代の特に五賢帝時代と言われる5人の皇帝が順に納めた時代のうち、第2皇帝ネロと第3皇帝ハドリアヌスが誇った時代に主に生きていたとされている人物です。
両親が奴隷というだけで本人のも奴隷にされその生涯のほとんどを奴隷として生活します。また足も不自由だったとされ、奴隷を解放された後世は私塾を開き、哲学者として生活していたとされています。
そのような生涯を背負ったにもかかわらず、現代にまで影響を与えるエピクテトス。なんとローマ帝国最後の皇帝マルクス・アウレリウスにも多大な影響を与え、彼の著書”自省録”にも何度もエピクテトスの言葉が引用されています。
そんなアウレリウスの時代が、最もローマ帝国が長く栄えた時代とも言われ、もはや皇帝と奴隷という立場が生徒と先生の立場になっており、なんとも妙な感覚を覚えるのは私だけでしょうか?
エピクテトスさんが生きていた時代は私たちには想像しきれませんが、その考え方の根本は現代にも通じることばかりです。特に、不自由とされていた奴隷であったにも関わらず”私は全くもって自由である”というスタンスを崩しません。その生き方を参考に今回はそのようなエピクテトス大先生が残した数多くの言葉から、ぎゅっと大きく3つに絞ってまとめます。
このことをいつも内省しながら生きていきたいなぁ。
1 自分にどうにか出来るか出来ないかだけで判断する
エピクテトス大先生はある日、一人の青年に問いかけます。
”君は何かに囚われて生きるのと、
何にも囚われずに自由に生きるのとどちらが良い?”
青年は
”もちろん自由に生きる方に決まっている”
と答えます。
”では地位や名声、他人の機嫌にも囚われていると不自由ということになるね”
生きていると、人は何かにつけて色々なものを欲しがったり、恐れたりするとエピクテトスさんは説きます。地位や財力、見た目、評判、上司の機嫌・・・まさに現在に通じる所だと感じます。そこでエピクテトス先生はこう続けます。
”自由に生きたいのであれば我々次第でない物を軽く見なさい”
先ほどあげた自分ではどうしようもないことはもっと軽んじていい。力を注がず、本当に自分の人生にとって重要なことに集中しなさいといいます。
2.自分の意思だけは常に自由である
エピクテトス先生は奴隷でした。かつ足も思ったように動かせません。そのような中でも私は自由だと言ってきました。ではエピクテトス先生が考える自由とはなんでしょう?それは、
”自分の意志の中だけで生きることが自由への唯一の道”
”自分の意思だけは、常に自由”
だということです。人に何を言われても、他人がどう思っていても、そんなことは気にしなくていい。誰かに何かを言われるか仕方なく・・なんていうのは、他人の人生を生きていることに他ならない。
自分以外の誰かに自分の意思を渡すな。
他者の意思を恐れ、他者の考えで生きるなんていうのは、他人の人生を生きていることに他ならない。そんなの訳がわからないということです。
思い当たる節が多すぎる・・・。
細やかに気配りできる人ほど、自分の人生でなく、他人の人生を生きてしまいそうですよね。
そして以下のように続きます。
他人と同じことをしないでいながら同じものを要求することはできない。つまり誰かに愛想良くしていると気に入られることはあるが、その人に愛想良くしないのに、気に入られることはない。
自分の意思を尊重して、相手からも何かを得ようなんてことは起きえないということも忘れてはいけないですね。
誰かに認められたいから・・と言って承認欲求の奴隷になってしまうと、自分の行動原理が相手に握られてしまいます。その状態がもはや不自由ですね。
前回の記事で、カーネギーさんの相手に重要感を持たせるところを慎重に運用しなければいけないなと感じているのもここに通じます。
3どう捉えるのかだけが唯一の対処法
生きているとあらゆることが生じます。
そんな中で、挑戦し、新しいことを新規開拓していく中でも何かと言われることがあるでしょうし、私でも色々と言われてきたことがあります。
ただ、その中で大切なことの一つが
”どう捉えるのか”
ということです。同じことが起きてもラッキーと捉えるのか、悲しい、辛いと捉えるのかということは人それぞれ。誰かに何か言われても、侮辱と捉えるのか、ただのたわごとだと捉えるのか、事実は一つ、解釈は無限です。
これはアドラー心理学等にも通じるところだと思いますが、そのような解釈を続けることによって、自己の負担を減らし、また次の目標へと進むことができるように感じました。
そして、究極は、他人も自分も非難しないということです。他人を責めることは自分の意思の無駄遣いですし、自分を責めることも、自分で自分を苦しめることになります。しっかりとした事実の把握はしつつも、いかに次どうするのかということに焦点を当てることの重要さを説かれているように感じました。
まとめ
今回は特に、”奴隷の哲学者 エピクテトス 人生の授業 荻野弘之さん著”を参考に、大好きなエピクテトス大先生の紹介をさせて頂きました。本書にはこの内容をもっと詳しく、マンガも差し入れながら細かく描写して下さっていますので、興味がある方は是非お手に取ってご覧ください。
エピクテトス先生が考える真の成長は自分の心を内省することであり、知識をひけらかさないことであり、賢い人間と思われないことであると感じています。
これ以上書くと本当に怒られそうですが、私はエピクテトス先生を知り、本書を読めて本当に救われました。
哲学が好きな方、自己や自由について考えてみたい方、是非ご一読ください。
ではまた!